2018.10.22
第1回 私は悪くない
私はいつもラジオを聴きながら仕事をしている。よく聴く番組では毎日テーマを決め、リスナーからメール等でそれにまつわる体験談などを募集し、紹介している。少し前になるが「冤罪」というテーマで体験談を募集していた。「冤罪」といっても大それた深刻なものではなく、子供の頃に、自分はつまみ食いをしていないのに親に疑われたとか、ささやかな悪事を自分のせいにされたといった、たわいもないものだった。
番組には天気予報のコーナーが何回かある。日替わりで登場する気象予報士の人たちにも、MCがその日のテーマについて、何か体験談はありますかとたずねる。その日も担当の気象予報士の女性に、
「『冤罪』の経験はありますか」
と聞いていた。すると彼女は、
「予報が当たらないといわれるのは、私にとっての冤罪です」
といった。そして、
「はあ……」
とMCの女性がとまどったような雰囲気になると、続けて、
「予報が当たらないのは私のせいじゃない! 天気が悪いんです」
といい放ったのである。それを聞いた一緒に番組を進行しているMCの男性が、
「そういうことをギャンブル場の予想屋のおっさんがいったら、袋叩きに遭いますけどねえ」
とうまく笑える方向に持っていったので、その場はなんとか収まった。しかし私はそれを聴いて、
「この人、どうして気象予報士の仕事をしているのかな」
と仕事の手を止めて考えてしまったのだった。
私も天気予報を参考にして、
「全然、当たらなかったじゃないか」
と思うことはしばしばある。当たっているときは何とも思わないのに、当たらないときは文句をいいたくなる。勝手なものである。なかには直接、メールやツイッター等で気象予報士にクレームをつけてくる人もいるのだろう。しかし多くの人は、天気が自分たちのままならないことはよくわかっている。そもそも自然現象である天気を、完全に当てること自体が無理な話なのだから、はずれても仕方がないのである。なのでとりあえずぶつくさいったとしても、気象予報士個人に対して、文句をいっているわけではない。
私は気象予報士という資格ができてから、天気予報は当たらなくなったんじゃないかという原稿を書いた記憶がある。しかし今から思えばそのあたりから、気象をとりまく環境が変化して、以前とは違う傾向を示すようになり、予測が難しくなってきたのかもしれない。ただ最近は、人物の経歴等がインターネットで簡単に検索できるので、それによって、
「こいつは気にくわない」
と感じた輩(やから)に攻撃されることはありそうだ。彼女もこのような物言いをするタイプなので、彼らにターゲットにされた、不愉快な経験があった可能性はある。
私は原稿を書くにあたり、先入観を持たないように、彼女の経歴については検索しなかった。しかし百歩譲って、彼女がそうだったとしても、仕事をしている社会人として、また公に自分の予報を発表する立場として、
「私は悪くない」
ときっぱりといいきってしまう神経。これが私にはひっかかったのである。テレビのバラエティ番組で、気象予報士の資格を持つ石原良純が、出演者に、
「全然、予報が当たらないね」
とからかわれ、
「おれのせいじゃねーよ」
と叫んで、笑われるのとは違うのだ。
たとえば一般企業で働いている会社員でも、自分は悪くないのに、社内のもろもろのままならない事情で、頭を下げなくてはならない場合がある。内心、
(自分は悪くないのに)
と思っていても、詫びなくてはならない状況が多々あるのだ。そしてそのときは自分が悪くなくても、いつか同じミスをしてしまう可能性がある仕事への緊張感や真摯な気持ちが、頭を下げさせるのではないかと思う。すべてをのみこんで、自分が頭を下げるのが大人なのである。
しかし彼女はそうではなかった。私が見た限りでの話だけれど、テレビに出演している気象予報士の方々はみな低姿勢で、他の出演者から、
「このごろ予報が当たりませんね」
といわれると、
「すみません。前線の動きが複雑になっていまして、予測をするのが難しいんです」
と恐縮して説明してくれる。見ているこちらも、それはそうだろうなと納得する。
「まあ当たらなくても仕方がないが、とりあえず参考にしておこう」
といったスタンスになる。もしもこのような場で、ラジオに出演していた気象予報士の女性が、
「このごろ予報が当たりませんね」
といわれて、
「私は悪くないです」
といいきったら、その場にいるスタジオ全員、視聴者が、
「はあ?」
となってしまうのは間違いないだろう。
気象予報士になるのは、とても大変だと聞く。合格率は4・0から4・9パーセントの難関らしい。それに合格するのだから優秀な人たちが揃っているのだろうし、まず気象が好きだから受験をしようと決めたのだろう。しかし私は件(くだん)の女性に対して、どうして気象予報士になったのかと首を傾げたのは、
「天気が悪い」
と自分ではなく天気のせいにしたからである。自分が関わっている仕事に対して、そんなふうにいえるなんて、特に気象予報士の彼女にとっては研究対象でもあるはずなのに、それに愛情を持っているとは思えない。大人として別のいい方はできなかったのか。まあそれができないのが彼女の性格なのだろうけれど、実はこの気象予報士という仕事に愛着を持っているわけではなく、難関試験に合格した自分が好きなだけではと詮索したくなった。
二十年以上前、撮影の際、編集部が依頼してくれた、世界的にも高名なヘアメイクアップアーティストに、メイクをしてもらった。私は緊張していたのだが、その方はおごったところなどみじんもなく、それどころか自然体で丁寧で、
「ああ、こんな女性になりたい」
と心から思わせてくれるような方だった。私は無信心だが、こういう方と出会わせてくれた偶然を神様に感謝したいほどだった。
それからすぐ後、私よりもひと回り年下の、知り合いのヘアメイクの女性と会った。彼女は私がその高名な女性にメイクをしてもらうのを、編集部経由で知っていて、顔を合わせるなり、
「あの人、大丈夫でした?」
と、ちょっと小馬鹿にするような態度で聞いてきた。私は最初は意味がわからず、ぽかんとしていたのだが、ああ、ヘアメイクの件かとわかり、
「とっても素敵な方で、メイクも自然でよかったわ。でもどうして」
と聞き返した。すると彼女は、
「だって、あの人、モード系だから。どうなるのかって心配してました」
という。私はそれを聞いて、こういっちゃ何だが、日本でも有名でも何でもないあんたが、心配することでもないじゃないかといいたくなった。だいたい仕事ができるヘアメイクの人は、さまざまな引き出しを持っていて、相手に似合うようにきちんと仕事ができるものなのだ。モード系だからといって、何でもかんでもモード系になるわけではないということが、根本的にわかっていないところが情けなかった。
その後、何度かその方には出版社からの依頼でメイクをしていただき、そのたびに私はお目にかかれるのがとてもうれしかった。優しく穏やかで、私よりも小柄でファッションもシンプルなのに格好よく、すべてが素敵だった。一方、高名な彼女に対してあれやこれやといってきた彼女とも、何だかんだでつき合いは続いていたけれど、仕事のときに必ず何かを忘れてくるのが、気になっていた。
あるとき、習っていた小唄の名取式に出席しなければならなくなり、せっかくの場なのできちんとメイクをしてもらおうと彼女に頼んだ。すると着物の着付けはどうするのかと聞いてきたので、
「着物は自分で着られるけれど、礼装用の袋帯を締めなくてはならないので、これが大変かもしれないな」
と返事をすると、
「私、着付けができますから、やってあげますよ」
という。それは助かるとそちらもお願いした。
当日、私は彼女の着物の扱いを見て不安がよぎった。着物ハンガーにかかっている着物を、ずるずると床にひきずっているのを見て、
「着物をひきずってはいけないって、学校で習わなかったの?」
とやや強い口調で注意すると、
「あっ」
と小さくいって着物の裾をたぐりあげる始末だった。私は内心、これはまずいと不安になりながら、自分で着物を着て、
「あとはお願い」
と彼女に袋帯を結ぶのをまかせた。するといつまでたっても、背後でもたもたしているので、どうしたのかと鏡ごしに見てみたら、私が胴に巻いた後の、だらりと背後に垂れた帯を持て余していて、そして適当に折り曲げたのを私の背中に当てて、
「これでいいんでしたっけ」
と小声でいう。私は思わず頭に血が上り、
「違う」
と怒ってしまった。それから私は彼女に補助してもらい、自分で袋帯を結んだ。そして、
「あなたは袋帯を結べないんだから、今後一切、仕事相手にそんなことをいっちゃだめ」
と叱った。尊敬するべき高名な先輩について、
「あの人、大丈夫でした?」
などとあれこれいう前に、自分のするべきことをしろなのである。だいたい仕事の前日に明日するべきことの確認をしないのだろうか。美容学校で習ったのは間違いがなく、そのときにはできたのだろうが、自分が今それを覚えているかどうか、それを不安にも思わないし確認しないなんて、お金をいただく仕事をいったいどういうふうに考えているのだろうかと呆れてしまった。
彼女はいちおう「すみません」と謝ったあと、
「請求はどうしたらいいですか」
と聞いてきたので、
「あなたが請求するべきだと思う金額を請求して」
といい、むっとして家を出た。そしてのちに届いた請求書を見たら、着付け代もすべて含まれていて、
「ふーん、そういうことなのね」
と、私は三万円を支払った。
以前、彼女の仕事に対する態度について、本気でやる気があるのかを、きちんと話をしておいたほうがいいと思った。しかし私の話が、自分が聞きづらい内容だとわかったとたん、彼女は、
「すみません、すみません」
と明らかに心がない「すみません」を、ものすごい勢いで連呼しはじめたので、こちらが言葉を挟む余地がなく、話すのは諦めたのだった。
そして何年か後に再会したとき、今度、大学教授の男性の撮影用のヘアメイクの仕事をするといっていた。彼女の話によると、彼はヘアメイクにうるさく、これまでに担当した人たちとトラブルになったらしい。
「男の人も気にする人がいるからね」
そう私がいうと彼女は、
「男の人のヘアメイクなんて、適当に、はいはいって、いっていりゃあいいんですよ」
とまた小馬鹿にするようにいったので、私は、
(もう、これはだめだ)
と匙を投げた。自分が仕事をさせてもらう相手に対して、そんな態度でいいのか。あまりに失礼ではないかとまた腹が立ってきたが、どっちみちこういう考え方の人には、ブーメランのように仕事に対する姿勢が、評価として戻ってくるのに間違いないだろうと私は黙っていた。
二か月ほど経って、
「大学教授のメイクのお仕事、うまくいったの?」
とたずねたら、
「うーん」
といったっきり黙っていた。相手がまともだったら、誠意のない態度は見抜かれるに決まっているのだ。
周囲の評価はそうではないのに、自分は自信満々という人はいる。どこにでもいる。またそういう人に限って、人には教えたがるものだ。少しでも自分を他の人の上に置きたいのである。それは自信のなさの裏返しからくるものかもしれない。自信があればゆったりと動じなくて済むし、ヒステリックになる必要もない。しかし自分のしている仕事に対して、不誠実な態度の人間は救いがたい。気象予報士の相手は生物ではないが、その世界が好きだからその仕事を選んだのではないのか。自分は悪くない発言の気象予報士の女性も、黙々と気象について研究していればいいのだ。そうすれば当たり外れとは関係なくいられる。表に出るのは自分をアピールしたいからだろう。
当然、表に出るリスクもある。それが彼女のいった「当たらない」といわれる「冤罪」である。気象予報士の人が腹の中で思っていることを、彼女が口に出したのかもしれない。しかし多くの気象予報士は、どんな天気、自然現象も興味、調査の対象であり、予報が外れる理由を天気のせいにはしないはずなのだ。それをしたのは彼女の資質の問題である。相手の口を封じるためには、攻撃は最大の防御タイプでもあるのだろう。私は仕事に対して謙虚さのない人物と認識したのだが、定期的に彼女は出演している。相変わらず物のいい方が、私が教えてあげる的な雰囲気だ。別の気象予報士は、予報が当たらないことに対して、
「予報の空振りがいろいろとありまして」
と穏やかに話している。これが大人の対応、仕事のやり方だ。この一件があってから、番組のなかで感じの悪い彼女が登場すると、私は出演時間を見計らい、その間だけ他の局に周波数を合わせるのが習慣になってしまったのである。