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「行きなさい、戻ってこないつもりで」韓国を出る娘の背中を押した母(第4回 前編)

 イェジは大学で英文学を専攻していて、在学中から資格を取って小中学校で英語を教えていた。母親が仕事をやめて収入がなく、父は家にいたりいなかったりで、自分の分はアルバイトで稼ぐ必要があったからだ。将来は公務員になろうと決めた。「お金がないことにも疲れたし。自分は安定できる仕事がほしいと思って」
 母親は「あなたの道は公務員じゃないと思う」と反対したが、「お母さん、現実を見ましょう。うちにはお金がない」と3年間勉強し、試験を受けた年に公務員試験に合格したという。
 それは、イェジが口で言うほど簡単なことではなかっただろう。彼女が公務員試験の勉強をしていたころは、韓国で20代の失業率の実態は20%とも言われていた。国が「海外インターンシップ3万人、海外就職5万人」という目標を掲げ、若者たちが働ける職場を開拓して、中国や豪州、米国、中東などにIT技術者や看護師などを送り出していたほどだった。実際、彼女の受けた年の公務員試験の合格率は1%弱だった。
 そんな厳しい公務員試験に合格したそのときに、でもイェジは「これが本当に私の道なの? 私、このまま韓国で、ずっとやっていけるのかな」と思ってしまったのだ。
 公務員試験を受けるときに一緒に励まし合って勉強していた女性は、フィンランド留学も視野に入れて資料を集めていた。それで彼女も、「フィンランドに行ってみよう。バイトしてためたお金でやってみよう、これが自分の最後のチャンス」と、看護学部を目指して勉強した。
「今考えると、私の20代は、家で勉強ばかりしていて本当に暗かったんです。自分が何を目指しているかも分からなかった。でも、『私はここで終わりじゃない。ここが私のいる場所じゃない』っていう気持ちはあった。何か私がやりたいこと、知りたいことがあると思っていました」
 平日は学校で英語を教え、週末は個人レッスンで留学資金をためながら勉強して、応募した5つの大学すべてに合格した。「大学を選べる。これは行くしかない、運命だと思いました」
 彼女の弟や友人たちは「公務員試験のためにそこまで勉強してきて、やっと合格して安定した公務員になれるのに、また勉強するためにフィンランドに行くなんてありえない」「バカじゃないの」と言った。

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 そんな中で母親だけが、「イェジ、この時が来たね。私は知ってた。出て! いま行きなさい。戻ってこないつもりで」と言ってくれたという。
「お母さんがそう言ってくれたから、他の人にばかにされても私はこれが自分の道だと思って韓国を出ました」
 彼女がフィンランドで一番大変だったのはお金がなかったことだという。フィンランド北部の大学で、看護師の勉強をした。毎年、授業料を払う時期にはお金がなかった。3年半の学費や学生用のシェアハウス、食費や生活費で計約10000ユーロを出した。独身で、フィンランド人のパートナーがいるわけでもないのにその学部で学んでいる外国人は、自分一人だった。
「いつもフィンランドで一番安い、じゃがいもとソーセージを買ってました。キムチもお米も買わず、韓国料理も食べていなかった。でも周りの人たちがみんな、『えらいね、ひとりで大変だね』と応援してくれていました」
 コロナ禍もあって3年間は一度も韓国に帰らなかった。バス代も節約しようと、片道1時間ぐらいの距離は全部歩いた。
「でも自分では、お金がないから不幸だとは思っていなかったです。『こんなにお金を節約している私、えらい。かっこいい』と思って歩いてた。 バスに乗ったつもりで歩いて『今日も3ユーロもらった』と思っていた。(その「つもり貯金で」)スーパーで半額になった食べ物を買ったりして『わたし、こんなによく生きてる。わたしすごい!』って思ってました。いつもじゃがいもや野菜をちゃんと食べて、いっぱい歩いてたから、韓国で勉強だけしていたときよりも健康になりましたね!」と、いい話のようにまとめた。

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 イェジは韓国の母親に「幸せ。お金をいっぱいもらって、いいものをたくさん食べてるよ」と話していたそうだ。「文句言っても変わらないし、これが私が選んだ人生だから。お母さんにはきれいな写真ばかり送ってたから、何も知らなかった」
 イェジの母親が初めてフィンランドに来たのは、大学の卒業式。イェジが住んでいた、部屋に勉強道具しかない薄暗いシェアハウスで 「こんな小さな部屋だったの。ごめんね。全然知らなかった」と言って母親は泣いたという。でもイェジは「え、なんで泣くの? 留学生の生活ってこんなもんだよ、大丈夫大丈夫。それよりお母さん、フィンランドのリンゴ食べて。それで、明日卒業式だから泣いてないで寝よう」となぐさめたのだという。
「わたしは、フィンランドで成長したんだと思います」
 帰る時間が来るころには、私の心はすっかり温まって勇気と食欲がわいていた。イェジはガッツがあるな。私も、恥ずかしさは捨てて、かっこ悪くても粘ってみよう。だめでもともとなんだし。
 そして教授に、成果が出せていないことを改めて謝り、自分のやりかけのプロジェクトについて書き出し、1年だけ延長してもらえたらとてもありがたいのですがという率直なメールを送った。

(連載の文中の肩書や組織、値段や為替レートなどはそれぞれ2025年時点のものです)

第4回後編は2026年2/10(火)公開予定です。

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堀内京子

ほりうち・きょうこ
ライター。1997年から2023年まで新聞記者。退職し、現在は二人の子どもとヘルシンキに滞在。著書『PTAモヤモヤの正体』(筑摩選書)、共著に『徹底検証 日本の右傾化』(筑摩選書)『まぼろしの「日本的家族」』(青弓社) 『ルポ税金地獄』(文春新書)、朝日新聞「わたしが日本を出た理由」取材班として『ルポ若者流出』(朝日新聞出版)がある。

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