2023.4.21
【W新刊記念対談】武田砂鉄×堀井美香 あなたの「普通」と私の「普通」が違う場所で語り合うこと
「母親」という型にはまることで見えたこと
堀井 砂鉄さんのこの本を読んでいて、こんなにこの一言で思うんだとか、こんなに考えるんだっていうことがたくさんありました。勉強になりました。
武田 人から言われたこと、目にした言葉や情報を前に、すぐさまそこで怒るってことはないんですが、腹の中にため込んではいるんですよね。「あのとき、ああいうこと言われたな」って、それは積極的なことも消極的なことも両方あるんですけど、そういう備蓄をエネルギーに換えて、日々を動かしている感覚があります。堀井さんにとって、そういうエネルギー源というか、エンジンになるものっていうのは何なんですか。
堀井 そういうクエスチョンマークとか、怒りとか、私とは違うみたいな、それおかしい、みたいなことをエネルギーに変換することはないです。
武田 ポッドキャストで「OVER THE SUN」を始めるきっかけが、昼間にやっているラジオの出演がなくなるタイミングだったということで、「怒った」とは書いていないですが、「こういう機会だからこそやってやろうじゃないか」みたいな感情っていうのはあったわけですよね。
堀井 見返してやるとかは特にないです、本当に。
武田 「型が好きだ」って本に書かれていましたけど、自分から「こうやりたい」と主張するよりも、「こういう箱があるから、そこにはまってみて」って言われて、「はい、はまってみます」みたいな感じできたんですか。
堀井 そうですね。新しい場所が与えられたら、それに合わせてやりますっていう感じです。
砂鉄さんのこの本読んでいて、母親であるっていうのは、ちゃんと判で押されるようなことだってこと書いてませんでしたっけ。
武田 そのようなことを書いてます。「父親である」「母親である」っていうことを社会から認証される感じ。「あなたは父親ですね」「あなたは母親ですね」と区分けされることへの違和感から今回の本はスタートしているんです。
堀井さんの話に引き寄せると、「母親である」っていうことが、型として用意されているのであれば、堀井さんは素直にそこにはまってみると。
堀井 そう。型にはまれと言われたほうが楽ですよ。客観的に、外からその型を見て、制御していくのがやりやすかったです。だから、砂鉄さんが言うところの、いわゆる第三者的な感じで、外にいて制御してる感じでした。
武田 外にいて制御している。それは、型にはまる自分もいるけど、外側から客観的に見る視線もあるってことですか。
堀井 そうですね。母であることを客観的に見ようとしてたので、型にはまることは全然、苦しくなかったっていうことですかね。
武田 その客観性を持つことで、大変になることはありましたか。実際にお子さんが生まれて子育てをして、となったときに、ほとんどワンオペで育てたと書かれていましたね。それでも、こういうものなんだと遠目から見る感じがあったんですか。
堀井 「こうだからこうしなきゃ」みたいなのはすごく強かったと思います、他の人よりも。
砂鉄さんの本に書かれてたと思うけど、「普通である」っていうことを、そうなんだって素直に理解して、それを受け継いじゃう人たちもいるっていうこと。
私はまさにそれで、田舎の、「普通」がとてもしっかりはっきりしたところで育ってるので、「これが普通」だと思って。
武田 親から、「大学出たらすぐにでも結婚しろ」と言われていた、とありましたね。数十年前の話だったとしても、なかなか強烈ですね。でも、それを言われても、「そうなんだ」って受け止めていたと。
堀井 そうです。私はこういう世界に入ったり、周りにジェーン・スーがいたりとか、砂鉄さんのこういった本を読んだり、いろんな人が周りにいるから、だんだん考えが変わってきて、今はその頃と全く違いますけど、たぶんこういうお付き合いがなければ、その考えのままだったと思います。
武田 疑ってみたり、他の選択肢がないんだろうかと考えることもなかったと。
堀井 なかったと思う。知らないまま死んでいったと思います。「普通であれ」っていうことが、本当はいろんな人の足かせになってるんだってことを知らないまま。
武田 でも、奇しくもスーや砂鉄に出会ってしまい、こういう考え方もあるんだと目の前に現れた。先に知っておきたかった、と思いますか。
堀井 先に知っておきたかったなっていうのはないです。だって、そのとき「普通」が幸せだと思っていたから。そのとき不幸だと思っていたら、たぶん、この「普通」を変えたいと思ったんでしょうけど。この「普通」がとても幸せだなって、親戚同士、家族内でみんな集まってとか、それが普通だったので、どうして知らなかったのか、とかは思わないですね。
武田 今、結婚する・しない、子どもを持つ・持たないなどもそうですが、それぞれの生き方があっていいと言われますけど、もちろん、その中に、これまで続いてきたクラシックな結婚の形だって当然あっていいわけですよね。当然、否定されるものではありません。この本の中で、鍵かっこ付きの「普通」っていう言葉を使って、「普通の結婚とは」とか、「普通、結婚して子どもを産むものだよね」みたいな圧に対する疑いを書いてはいるんですけど、「普通とされる形」を根こそぎ削りたいわけではありません。それが弾かれるようであってはいけないとは思っています。