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創刊からの10年間でもっとも嬉しかった『SPY×FAMILY』のコミックス初版100万部達成! 【戸部田誠『王者の挑戦 「少年ジャンプ+」の10年戦記』序章 試し読み】

100万ダウンロードの目標はすぐに達成したが……

「ジャンプ+」は「ジャンプ」最新号電子版のサイマル配信という強力な武器もあり、細野も驚くほど急速にユーザーを集めていた。当初、1年で100万ダウンロードを目標にしていたが、それを創刊わずか20日で達成したのだ。当時、電子版を配信していたのは講談社の「モーニング」を母体とする「Dモーニング」だけ。保守的な雰囲気が漂う出版界において、ライバル少年マンガ誌に先駆け、もっとも売れている「ジャンプ」がサイマル配信を実施したのは強烈なインパクトがあった。
 だが一方で、細野は大きなプレッシャーを感じていた。
「ジャンプのブランド」
 それを汚すことはできない、と。一刻も早く「ジャンプのブランド」にふさわしい、紙のコミックスでも売れるヒット作を生み出さなければならない―――。

 創刊時から毎日数本連載されている「ジャンプ+」の作品は、「ジャンプ」と同じレーベル、つまり「ジャンプコミックス」として単行本化される。しかし、「ジャンプ+」のマンガはウェブ上で基本無料で読むことができる。それを果たして、コミックスとして販売して売れるのか、懐疑的な意見のほうが大勢を占めていた。しかも紙の雑誌の場合、誌面は限られており、「ジャンプ」は厳選した20作品前後しか連載が許されない。しかし、ウェブは無限。極端にいえば、いくら連載してもいい。事実、「ジャンプ+」は「ジャンプ」よりも作品数が多かった。さらにいえば、創刊当時は実験的な作品も多かった。
 けれど、細野は、コミックスを出すことにこだわった。それが作家の努力に報いることであり、ひいては「ジャンプ+」の成長につながることだと信じたからだ。
 だが、出版社と書店とをつなぐ役割である販売部からしてみたら、良いことばかりではない。事実として、まだまだ媒体としての力が弱かったゆえ、「ジャンプ+」作品のコミックスで満足のゆく売れ行きのものはほとんどなかった。一方で、書店の棚は限られているのに作品本数だけは多い。「ジャンプ」連載作品のコミックスは売れるため、書店も置いてくれる。しかし、同じ「ジャンプコミックス」というレーベルにもかかわらず「ジャンプ+」の作品は売れない。現場の担当者としても「ジャンプ+」のコミックスは大変な存在だった。販売担当者は、当時の事情をこう振り返っている。

「当時、コミック販売部に人的余裕もなかったんです。だから『ジャンプ』担当者もただでさえいっぱいいっぱいでした。その上で『ジャンプ+』のコミックスも出る。それまで、たとえば月10タイトル担当していたものが、15タイトル担当するようになる。単純に仕事量が増えてしまった。しかも、売れる作品は少ない。他のレーベルよりも『ジャンプ』は書店さんが期待感をもって迎えてくれる中で、『ジャンプ+』の本が売れないとなると『ジャンプコミックス』って大丈夫か?みたいな雰囲気になることを恐れていたんだと思います」

 そんな状況も、徐々にヒット作が出ることで好転していった。2016年に始まった『彼方のアストラ』(篠原健太)、『ファイアパンチ』(藤本タツキ)、『終末のハーレム』(LINK原作・宵野コタロー漫画)などが軒並み部数を伸ばし、2018年の『地獄楽』(賀来ゆうじ)に至る頃には、「ジャンプ+」発のコミックスに対する懐疑的な視線はほとんどなくなった。

劇的なゲームチェンジャー『SPY×FAMILY』

 そして劇的なゲームチェンジャーとなったのが、2019年3月25日から「ジャンプ+」で連載が始まった遠藤達哉による『SPY×FAMILY』だった。細野は一読して驚いた。

「シリアスとコメディーの比重が素晴らしい上に、なによりアーニャの設定が秀逸で衝撃を受けました。反響は予想をはるかに超えてましたね」

『SPY×FAMILY』は、スパイの男・ロイドと殺し屋の女・ヨル、そして超能力を持つ少女・アーニャが「仮初め家族」を築くスパイアクション&ホームコメディだ。この作品は、ほぼ全会一致で連載会議を通り、連載がスタートすることになった。だが一方で、読者に受け入れられるのか不安の声がなかったわけではない。「ジャンプ」から2017年に「ジャンプ+」に異動し、副編集長を務めていた中路は、「目が曇っていた」と告白する。

「僕からすると、すごくちゃんとつくっているから人気が出ることは間違いないだろうけど、そこまで『ジャンプ+』の読者に刺さるかというと、どうなんだろうと思っていました。それまでのウェブマンガの世界は、エログロとかホラーとか刺激の強いものが人気だった。だけど、いつの間にか、そっちがレッドオーシャンになっていたんです。『SPY×FAMILY』のような骨格のしっかりしたエンタメど真ん中を行くような作品が実は新しいって視点がなかった。『SPY×FAMILY』は『ジャンプ』で連載していたとしてもヒットしたと思いますけど、それを『ジャンプ+』でやったというのがインパクトがあったんだと思います」

 反響は凄まじかった。
 早くから才能は認められつつも、なかなかヒット作に恵まれなかった遠藤達哉にとって、ついに出た大ヒット作となった。
これには、「ジャンプ」の第8代編集長であり「ジャンプSQ.」(以下、「SQ.」)の創刊編集長でもある茨木も目を細める。彼は「ジャンプ+」の前身である「ジャンプLIVE」立ち上げを細野・籾山に進言した人物だ。

「僕は遠藤先生には思い入れがあるからね。ものすごい才能があると思ったから『SQ.』に呼んで、連載していただいたんですよ。それくらいいいなと思ってた。林に預けて『TISTA』と『月華美刃』のふたつの連載をやったんだけど、思ってるほどのヒットにならなかった。そしたらしばらくして『SPY×FAMILY』ができた。林、やるじゃん!って思いましたよ。嬉しかったですね」

茨木は「SQ.」編集部内でもっとも若かった入社2年目の林に「若いもん同士でやりなさい」と遠藤を引き合わせ、担当にした。遠藤は林より2歳上。初めての年下担当だったという。林は、遠藤をオシャレでカッコいい先生だな、と思った。

「遠藤先生は描けなかった時期が長かったんですけど、ずーっと定期的に打ち合わせはしていたんです。その間、お願いして僕が担当している先生のアシスタントに入ってくれてもいました。『青の祓魔師』の加藤和恵先生とか『この音とまれ!』のアミュー先生とか。
 遠藤先生が入ると画力が底上げされるんです。そんな自分が手伝った後輩たちが売れていくのを横で見ていていろんな思いがあったと思うんです。だから僕の中でも、遠藤先生がそのまま売れなかったら罪悪感に苛まれていたと思いますね」

しばらく連載用のネームを描いていなかった遠藤が、あるときから、定期的な打ち合わせの前日にプロットを送ってくるようになった。

「明日これやります。全然こんなのしか思いつきませんでしたけど……」

そんなことを何度となく繰り返していた。
そして2018年6月2日。「昨日思いついたやつ」というタイトルのメールに添付されていたのが、『SPY×FAMILY』の原型となるプロットだった。スパイと殺し屋と超能力者の3人家族の物語だった。

「いいじゃないですか! これを掘り下げていきましょう!」

 林は興奮気味に返答して、遠藤に連載ネームを描くように要請した。

「3人家族の共同生活で、スパイの夫と殺し屋の妻というのは最初から決まっていたけど、娘のアーニャは、まだ名前があったかどうか。超能力者の娘というのは決まってたけど、どんな超能力かは決まってない。それでも面白かったんで、やるって決まって、超能力をなんにしようって、めちゃくちゃ超能力のリストを出して打ち合わせをした記憶があります」

 タイトルは難航した。林は最初、わかりやすくカタカナ表記の「スパイファミリー」を提案した。

「ダサッ」

 遠藤に一蹴され、かなり時間をかけて話し合い、現在の表記に落ち着いた。『SPY×FAMILY』は連載が開始されると空前の閲覧数を記録した。
 茨木が「これを待っていた」と言うように、「ジャンプ+」読者もまた「これを待っていた」のだ。
 しかし、コミックスの部数を決める部数会議は難航した。何しろ、「ジャンプ+」の歴史の中で、これほどの閲覧数を誇る前例がなかったからだ。一体どれくらいの部数にすればいいか見当がつかなかった。コミック販売部で「ジャンプ+」担当になっていた加藤はこう証言する。

「『SPY×FAMILY』は、これほどまで閲覧数が取れている作品がなかったので、どうしよう、みたいなことはありましたね。それこそ、部数会議の場に持っていって意見聞きながら決めるしかないかなっていう感じでした。当時、この閲覧数で、初版で読者がどこまでついてきてくれるんだろうっていう指標が本当に少なかったので、探り探りでした」

 初版部数にはベースとなる基準がある。それに対し、どこまで上乗せするかが焦点だった。
 当初は3万部が提案されていた。閲覧数と比較するとやや慎重な数字だ。以前の「ジャンプ+」ヒット作で強気の部数を出したときに思いの外、振るわずに苦労したからだ。だが、会議ではもっと行けるという声があがり、初版5万部を刷ることとなった。『SPY×FAMILY』第1巻は、難航した部数会議がなんだったんだと思えるほど瞬く間に売れていき、即重版となった。林は嬉しさ以上に肩の荷がおりた気分だった。

「10万部いったときは、ああ、これで遠藤先生が食いっぱぐれることはないだろうって心底安心しましたね」
 
 林の同期であり、それまでの「ジャンプ+」を代表するヒット作『終末のハーレム』を担当した佐井は、ここまでになるとは、という驚きと喜び、そしてほのかな悔しさをにじませる。

「最初から細野さん、籾山さんが言っていた、『DRAGON BALL』や『ONE PIECE』を超えるような作品を『ジャンプ+』から出すという、ようやくその戦いに移ってきたということだと思うんです。自分の担当作でそれを出したかったんですけど、『SPY×FAMILY』にやられたっていう気持ちも正直ありますね。林においしいとこを持ってかれたな、俺たちが畑耕したところを収穫しやがったなみたいな。そこは健全な競争心というか、ライバル心ですね」

 まさに「ジャンプ+」は段階を踏んで進化してきた。創刊して少しずつヒット作が出ると、新たに才能のある作家たちが集まってくる。すると読者も増え、宣伝費も増える。作品の閲覧数が増え、コミックスの部数も増え、また新たな才能がやってくる……ということを繰り返しながら、少しずつ大きくなっていった。その階段を上がっていった先に『SPY×FAMILY』があらわれたのだ。
『SPY×FAMILY』の勢いはとどまるところを知らないどころか、加速していった。
 3巻が出る頃には、各社からアニメ化への問い合わせや企画書も届くようになっていた。
 紙のコミックスだけで累計100万部も達成した。
 細野にとってひとつの念願だった、紙のコミックス「単巻で初版100万部」がもう手の届くところまで来ていたのだ。紙の書籍が売れなくなっている現在、初版100万部はとてつもない数字だ。「国民的マンガ」の証といっても過言ではない。
そして、2020年12月28日。この日発売された6巻で、ついに初版100万部を達成したのだ。

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新刊紹介

戸部田誠(てれびのスキマ)

とべた・まこと
●1978年生まれ。ライター。ペンネームは「てれびのスキマ」。
『タモリ学』『1989年のテレビっ子』『笑福亭鶴瓶論』『全部やれ。日本テレビ えげつない勝ち方』『売れるには理由がある』『芸能界誕生』など著書多数。
公式X@u5u

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