2024.3.7
【稲田俊輔さん×阿古真理さん『異国の味』刊行記念特別対談】 ブームとトレンドで振り返る、昭和・平成・令和の外国料理事情
本書の刊行を記念したトークイベントが、2月10日「本屋B&B 」にて開催されました。
対談ゲストは、日本の食文化を見つめた数々の著書を持つ、作家で生活史研究家の 阿古真理さんです。
イベントの一部を、ダイジェストでお届けします。
(構成/露木彩 撮影/齋藤晴香)
バブル後の若者にパラダイムシフトをもたらしたタイ料理
稲田俊輔(以下、稲田) 今日はお越しいただきありがとうございます。お会いするのは初めてなんですけど、言うなればゼミの教授と学生みたいな、そういう感覚でずっと敬愛しておりました。
阿古真理(以下、阿古) いえ、そんな大層な者ではないんですけれど。私は、食については一応たくさん研究をしているんですが、外食経験となると甚だ心もとないところがありまして。どちらかといえば、家でご飯を作って食べるということのほうが中心で、外食はイベントみたい感じで。稲田さんは豊富なご経験がおありで、さらにその提供側にいらっしゃる方なので、今日はお店をやってる人とお客さんということで、お話ししたいと思っています。よろしくお願いします。
で、この『異国の味』。稲田さんが今まで食べてきた日本における外国料理の紹介で、海外が9つと、最後は「東京エスニック」ということで、東京の料理で締めくくられる計10章。それぞれについて2時間ずつ語り合えそうなぐらいに面白くて。もう私は脳内で一人でしゃべっちゃって。私にとって “脳内フレンド”になれるのが、いいエッセイだと思っていまして。読みながらお友達になったつもりで「そうなんだ、私はね」みたいな会話を勝手にできるという意味で、稲田さんのエッセイは本当に素晴らしいです。
稲田 ありがとうございます。
阿古 この本の中で、衝撃を受けた食体験でタイ料理を挙げていらっしゃって、まずそのあたりの話からうかがいたいなと思います。タイ料理に出会ったのが90年というふうに書いていらっしゃいますけど。
稲田 そうですね、正確にはそのちょこっと前かな。89年とか88年とか、そのぐらいでしたね。
阿古 パラダイムシフトが起きるぐらいの衝撃っていうのは、タイ料理だけ?
稲田 正確に言うと、それに限りなく近いものが南インド料理にあったんですけれども。もちろんタイ料理を知るまでも、初めてちゃんとしたフランス料理を食べたときの衝撃とか、イタリアンが登場してきた衝撃とかはあったんですけど、そういうのとも違う、割と根本から違う文化に触れたっていう、そういうインパクトはありましたね。
阿古 まだ若者ですよね。
稲田 まだ大学入ってすぐとかそんな頃です。
阿古 稲田さんは、子どもの頃から本当にいろんな料理を食べていらして、本格的なものも、それこそたくさん。
稲田 出身は鹿児島なんですけど、意外とそうですね。
阿古 ご両親がグルメでいらっしゃって。稲田さんが会社を辞めて飲食の道に進むとなったときに、「おいしいものばっかり食べさせたせいだ」って言って夫婦げんかが起こったって。なんて幸せな夫婦げんかなんでしょう(笑)。
稲田 本当ですよ、もう。笑いをこらえるのに必死でしたからね、僕は。
阿古 食体験が20歳前後の若造とは思えないぐらい豊かだった稲田さんだからこその衝撃の受け方だったんじゃないかと。
稲田 そうかもしれませんね。でも、タイ料理がパラダイムシフト的であったっていうのは実はもう一つ背景があって。やっぱりちょっと上がバブル世代じゃないですか。僕は高校まで鹿児島にいたんで、田舎で、東京では今こんな感じだみたいなふうで、なんかワンレン、ボディコンのお姉さんが踊ってる感じとか、アッシー、メッシーがどうこうみたいな。
阿古 3高(編集部補足:高学歴・高身長・高収入)じゃないと選ばれない男たちとかね。
稲田 そう。で、恐ろしい世界だなと思ってたんです。当時、そのバブル的ヒエラルキーの頂点にあったのがフレンチとイタリアンみたいなところで、恐ろしくてそんなとこ近づけないよって。田舎から出てきて、そんなお金があるでなし、経験値があるでなし。なので、もうひっそりと生きていくしかないだろうと。だけど、タイ料理の世界だったら、ここはまだ新しいと。今始まったばっかりだし、イタリアン、フレンチの、ピラミッドの一番上の人たちみたいな人もこっちには来ないだろうと。我々はここなら伸び伸びと遊べるのかなって。だから都会に対するコンプレックスの裏返し的なところもあったと思うんです。
阿古 なるほど。で、パクチーは最初、ダメだった。
稲田 ダメでしたね、はい。
パクチーを嫌いだと言えない武士メンタリティ
阿古 私自身は、タイ料理との出会いは稲田さんより少し後で、会社の同期会で行ったんですよ。92~93年だったと思います。当時、私は大阪で働いてたんですけど、大阪でタイチャンコって流行ってたんですよね。東京ではどうだったのかな。
稲田 え? タイチャンコ? タイスキは聞いたことあるけど。タイスキと同じタイの鍋料理と思って大丈夫ですか。
阿古 同じだと思います。「流行りのタイチャンコ、食べに行こうぜ」みたいな感じで行って、ちょっと酸っぱかったりとか珍しい感じはあるんだけど、鍋料理なので、割とすんなり受け入れて。で、そこにパクチーも入っていて。確か『モーニング』か何かでタイに行った人のルポマンガがあって、それでパクチーの存在は知ってたんですよ。で、これがパクチーかって。私は気に入りました。
稲田 なるほど。いきなり大丈夫だった。
阿古 でもその中で、「これダメ」っていう人とおいしいっていう人、ぱっきり半々に分かれまして。おいしいと言った人のところにパクチーは集まったので、食べる人は二人前ずつみたいな感じで食べました。
稲田 まさにそっくりの状況で、僕は最初食べた時は、なんでこんなものが入ってるんだろうと。なければもっと素直に楽しめるのに。要するにパクチー以外の要素って、ものすごく親しみやすく感じたんですよね。本にも書きましたけど、ナンプラー自体は塩辛文化圏的な味。鹿児島にはカツオの塩辛という、もうナンプラーがそのまま固体化したような強烈な食べ物がありまして。いわゆる塩辛っていうとちょっと甘く味付けしてあって、食べやすくしてある感じの味を想像されるかもしれないんですけど、鹿児島では酒盗っていわれてたカツオの塩辛は、カツオの内臓だけをがっつり20%ぐらいの塩に漬けて、もう本当に固形化したナンプラーみたいなやつなので、その辺も全然、大丈夫だった。
ココナツミルクは、これ、お菓子でも肌に塗るやつでもなくて、食べちゃうんだ?みたいなのはあったけど、割とすんなりいけました。
パクチーだけ、なんでこんなものが入ってるんだろう?と思いつつ、なんで食べたかというと、単純に避けるのが面倒くさいから。
阿古 そんなにがっつり入ってたんですか? トッピングにあるわけじゃなくて。
稲田 がっつり入ってましたね。そう、それも僕、お話ししたくて。
パクチーって、自分が知った80年代終わりから90年代初めのほぼ最初期は、割としっかり入ってたんだけど、その後なんか忖度して、ちょっと脇に避けてあったり、もう最初からなかったりみたいな時代になっていったような記憶があるんですよね。
阿古 そうですか。だから逆にパクチストが生まれたわけですね。パクチーを何にでも何とかして入れようと。
稲田 当時は避けるのが面倒くさくて食べてたら、何となく受け入れられるようになって、パクチーってこういう味なんだっていう解像度が上がり、そうすると今まで気付いてなかったタレとかに刻まれて入ってたり、あとトムヤムクンなんかでも、実はパクチーの根っこがしっかり入ってて、風味にはそれがあったりすることに気が付くじゃないですか。そこで、ああ、おいしいものなんだなと納得するみたいな。
ちょっと脱線しちゃうんですけど、大阪に〔エリックサウス〕のお店を初めて出したときに、パクチーに対する態度が、東京のカレー好きというかインド料理ファンの方と、大阪のファンの方では全然違うなと感じたことがありまして。
阿古 どう違うんですか。
稲田 大阪でわざわざ〔エリックサウス〕に来て、それをインスタにあげたりブログに書いたりする方って、まあまあのカレー好き、カレーマニアとしての自覚がありますよね。「俺はカレーマニアだ、カレー詳しい、カレー好きだ」みたいな。その方たちが、かなりの割合で「俺はパクチーが苦手だから全部、避けた」とか、「次から最初に入れないように頼まなきゃ」みたいなことをすごくカジュアルに書いているんですけど、東京のカレーマニア、インド料理マニアは、絶対にそんなこと書かないんですよ。わかります?
阿古 それはプライドですか。
稲田 プライドです。多分、口に合わない人の割合は、初期段階では大阪も東京もそんなに変わらないんじゃないかと思うんですよ。でも東京の人たちは言えないんです。自分はパクチーが苦手だ、だからお店の人にも抜いてくださいって言えないし、ある種の痩せ我慢というか、無理をして受け入れる。
阿古 武士は食わねど高楊枝。武家出身じゃないと思うけど(笑)。
稲田 そう。まさにその武士の世界なんですよね、文化が。痩せ我慢をすることが美学で通ってきた江戸っ子たちの気風というのも、もしかすると、「俺、パクチー嫌い」って口が裂けても言えないっていうメンタリティを育てているのではないかと思います。