2020.7.17
「首を前に突き出して覗くもの」の正体

「それ」を最初に見たのは、五年前の深夜だった。
いつもの居酒屋を出た後、酔い覚ましにうちの近所を散歩していた。
その辺りは下町の、古い長屋が連なる裏路地だ。
千鳥足でふらふら歩くうち、ふいに気になるものが目に入った。
ある家の、古いトタン壁の前。
下町ならではといおうか、休憩用の木の長椅子が道端に置かれている。
そこに中年らしき男が一人、腰掛けている。
ただ、その座り方が奇妙だった。男の体は、なぜか道路の反対側、後ろのトタン壁に向かっている。わざわざ壁との狭い隙間に足を置き、顔を壁にもたせかけているのだ。
不審に思いつつ近づくうち、だんだんその姿がくっきり見えてきた。
あっ、これはだめだ。
喉元まで出た叫び声を、必死に押し殺す。
男は背筋をピンと伸ばし、膝に握りこぶしを乗せている。そして首だけを前のめりに突き出している。
しかしその顔面部分が、ぬうっと壁にめり込んでいるのだ。耳より前はトタン壁の中に消えている。まるで、家の中を覗いているようだった。
怖ろしさに口を押さえ、足音をたてないよう、ひっそり男の後ろを通り過ぎていった。
もし男が自分に気づいたら、こちらを振り向いたら、壁の中から顔を出したら……。
家に帰り着くまで、生きた心地がしなかった。
そして翌日。例の壁の向こうの家が、火事で焼けてしまったのである。
自分のマンションの近くだったので、跡形もなく全焼している様が見て取れた。
──あの男は、いったいなんだったのだろう。家人に火事を知らせたかったのか、はたまた家人への怨念で自ら火事をよんだのか。それはわからないが、しかし──。
