2022.1.30
元フィギュア強化部長が伝えたい、「最高のジャンプは、最強の武器である」理由
テレビの解説者たちがいわないこと
現在、日本のフィギュアスケート界は、オリンピック連覇を達成した羽生結弦の功績もあって「空前のブーム」ともいえる状況です。しかし、テレビ中継で解説者のコメントを聴いていると、制作サイドからポジティブなコメントを求められているのは理解できますが、日本人選手のパフォーマンスに対して「少し過大評価し過ぎでは?」と感じることも少なくありません。
テレビ局などのメディアからすれば、日本人選手のメダル獲得の可能性を大きく見せることがビジネス面で必要なことであるのは理解できます。また、それは、わたしも含めてフィギュアスケート界の組織にとっても、競技の裾野が拡がるという意味で意義のあることです。しかし、解説者の多くは現役時代に輝かしいキャリアを築いたいっぽうで、審判員としての経験を持っていません。
たとえば、2010年のバンクーバー五輪では、浅田真央の金メダル獲得が国民的レベルで期待されていました。当時、彼女は日本のスポーツ界全体を見渡しても最大のアイドルだったといえるでしょう。そして、その期待感をさらに盛り上げるために、メディアも解説者も、彼女の金メダル獲得の可能性を最大限まで煽っていたのではないでしょうか。
最大のライバルは、韓国のキム・ヨナでした。わたしは、国際審判員を務めてきた立場でふたりの演技を見比べたとき「浅田の金メダル獲得を既定路線のように決めつけて煽るのは間違いだ。その期待は浅田にとって過度のプレッシャーにしかならない」と感じました。フィギュアスケートという競技は、ジャンプ、ステップ、スピン、表現力という4つの要素を評価して採点します。ヨナはスケーティングの基本技術がすぐれているだけでなく、プログラム全体を通じて各要素を引き立てるための表現力を備えていました。
また、浅田の武器であるトリプル・アクセルにも、もし、わたしがジャッジの立場で採点するなら満点の評価を下すことにためらうような欠陥が隠されていました。この点については、羽生が現在、北京五輪に向けてチャレンジしているクワッド・アクセルにも通じるテーマなので、第2章でさらに詳述していきます。
もちろん、わたしもひとりの日本人として浅田を応援したい気持ちは同じです。また、彼女の強化プログラムには特に深く関わってはいませんでしたが、日本スケート連盟に関係するひとりとしても、彼女にメダルを獲ってほしい気持ちは強く持っていました。ただ、20歳でスケート靴を脱いだわたしが、みどりとの出会いを通じて再びフィギュアスケートと向き合って以来、つねに意識しているのは「勝利するための演技」です。そして、フィギュアスケートという競技で勝利するための演技とは、審判員に高く評価される技術を備えたものでなければならないのです。その意味で、浅田の技術に対する正当な評価を欠いたまま、金メダル獲得を前提とした報道には違和感を覚えていたのです。
厳しい、といわれるかもしれません。しかし、本書では、わたしの審判員としての〝眼〟で各選手の技術について正確なコメントをしていきたいと思います。
羽生結弦は3連覇を達成できるのか?
わたしは羽生の強化策に深く関わってきました。出会いは04年、彼がまだ9歳のときでした。1992年から日本スケート連盟が毎年開催してきた全国有望新人発掘合宿、通称「野辺山合宿」に羽生が参加したのです。
詳細については後述しますが、その後の彼のキャリアを改めて振り返ると、強化プログラム全体をデザインするという立場でわたしがもっとも力をいれたのが、現在も羽生のコーチを務めるブライアン・オーサーのもとに託すことでした。ご存じの方も多いと思いますが、地元・仙台をトレーニング拠点としていた羽生は2011年の東日本大震災で被災し、練習の場を失ってしまいました。一時期は少年時代に羽生を指導していた都築章一郎さんを頼って横浜・東神奈川でトレーニングをしていましたが、14年のソチ五輪に向けて新たな拠点が必要なことは明白でした。
そこで、わたしが着目したのが、ブライアン・オーサーが指導するカナダの「トロント・クリケット・スケーティング&カーリングクラブ」(クリケットクラブ)でした。ブライアンは、自身もオリンピックで2大会連続(1984年サラエボ五輪、88年カルガリー五輪)で銀メダルを獲得し、2010年のバンクーバー五輪ではコーチとしてキム・ヨナを金メダルに導いた実力者です。
その彼に、バンクーバー五輪の直後に「次は、日本人のトップ選手の指導をお願いします」とアプローチを開始しました。世界的なコーチへの依頼を実現するためには、いかに早期にオファーを伝えるかが重要です。ただし、この時点では、実際には誰がブライアンの指導を受けるようになるのか、わたしにも確信はありませんでした。最終的には、羽生がクリケットクラブに所属することとなり、その席を獲得しました。それは最初のアプローチから2年半ほどの時間が経ってからのことです。
その後の羽生の活躍は、ここでは述べません。ただ、平昌五輪で羽生が2大会連続の金メダル獲得という偉業を達成したあと、わたしは彼にいいました。
「おめでとう! よく頑張ったわね。お疲れさま」
当然、オリンピック2連覇という偉業を残して彼は引退するものと、わたしは考えていたのです。19歳のソチで冬季オリンピックの王者となった羽生も平昌では23歳になっていました。そして4年後の北京五輪を迎えるときには27歳。長野五輪の女子フィギュアスケートで金メダルを獲得したタラ・リピンスキー(アメリカ)は、当時15歳。そして、この大会を最後に引退しています。
オリンピックの競技でも、それぞれに「適性年齢」があると思います。たとえば、冬季の種目でいえばバイアスロンなど射撃系の競技では40代以上の選手も多くオリンピックに選出されています。そうやって考えると、フィギュアスケートにおける27歳というのは「ピークを過ぎた」といわれても仕方のない年齢なのです。
オリンピック3連覇に挑むのは意義ある挑戦だと敬意を覚えるいっぽうで、わたしは羽生が負ける姿を見たくないのです。
事実、ネイサン・チェンという手強過ぎるライバルや、宇野昌磨、鍵山優真が急速に台頭してきています。さらに、第7章で紹介するヴィンセント・ジョウ(アメリカ)など〝ネクスト羽生世代〟の追い上げも目覚ましいものがあります。この原稿を執筆している時点での評価で、率直にいって、羽生がネイサンに勝つのは簡単なことではありません。そして、その困難な戦いに向けて羽生が自分の武器にしようとしているのが、前人未到のクワッド・アクセルなのでしょう。
はたして羽生は、このチャレンジに成功するのか?
羽生の強化策に深く携わってきた立場で、また国際審判員を務めてきた眼力と見識で、彼にとって最後となるであろう挑戦に対して期待を込めながらも、客観的な立場からコメントを発していくこと。これも、本書におけるテーマのひとつです。
(以上、「はじめに」より)
著者からのメッセージ
日本のスケーターが常に世界で上位に入るようになった歴史には、先人たちが積み重ねてきた努力があります。採点者側の目線を貫いて書かれているこの本を手にとって、奥の深いフィギュアスケートという競技に、より興味を持っていただけたらうれしいです。
北京五輪のフィギュア観戦を深く面白くする一冊
伊藤みどり、荒川静香、安藤美姫、浅田真央、高橋大輔、羽生結弦、宇野昌磨、鍵山優真……日本フィギュアスケートを世界の頂点に導いた裏には、日本人ならでは特性を生かした高度な技術「ジャンプ」という武器があった――。スケート連盟強化部長・国際審判員として長く舞台裏で活躍してきた著者が記す、日本フィギュアスケートの技術の歴史書。
書籍『たかがジャンプ されどジャンプ 日本フィギュアスケートに金メダルをもたらした武器』の詳細はこちらから!