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男と女、そもそも自意識過剰なのってどっち?〜 意識高い女 vs. I amな男

男と女、そもそも自意識過剰なのってどっち?〜 意識高い女 vs. I amな男

I amな男~Wikipedia自分で編集するその自意識に乾杯の話

先日、東京五輪なんて今更開いたところで日本の衰退を世界に晒すだけだしおじいちゃんのノスタルジーを満足させるだけだし開催期間中には絶対東京にはいたくないよね、という一点のみで意見が合致した男と食事に行った。五輪についての話は早々に終わり、気づけば話は彼の人生に。
彼の話を悪意のみで意訳してサマリーにまとめるとこんな感じだ。

僕は10歳の時に両親が離婚し、母親の再婚相手のいる外国に渡った。もちろん黄色い肌に黒髪で英語もろくに喋れなかった僕は差別の対象で、母親が元夫を憎みに憎んでいたがために僕もかつての父のことは父と思わず憎んで育った。
白人である母親の再婚相手は善良な人間だったが、善良とはいえ肌の色も話す言葉も違う僕のことを本来的な意味での息子とは思っておらず、故に異国の地から来た不幸な子供として親切にしていたに過ぎない。
義父の援助もあって外国の大学に進むことはできたが、そこでも疎外感を感じて生活をしていた。
外国で黄色人種として成功する壁の高さを感じて単身アジアに戻り、大嫌いだった父と嫌々ながらも復縁し、僕を手放した罪悪感によって支えられている彼の善意でいい仕事といい住宅に恵まれている。
よって自分には根本的に人に安易な同情をする人間への強い嫌悪感と、愛情が別の目的に支えられた有限なものであるという孤独感がある。僕が恵まれて見えるとしたらそれはまやかしで、僕の才能が天性のもののように感じられるとしたらそれもまた受け手の安直さを指し示しているに過ぎない。
僕は完璧な人間ではなく、人の感情を理解できない冷たい人間で、完璧に見える術を身につけてしまったことがさらに僕を孤独にしている。君は人生の目標があるだろう、僕にはないのだ。ただ自分にできることをやっているだけさ。自分にできることが非常に広範囲であるということ、それができない人間への配慮がないことは自覚している。僕は人と違った人間なんだ。同じものを見ても人と違った感想を持つ。僕は今の仕事だってどうしてもやりたくて努力して手に入れたわけじゃない。単にできたからやったのさ。僕はきっと普通の幸せな人間にはどう願ってもなれない。僕にない唯一の才能、それは馬鹿になることさ。

心を無にして改めて読むと欅坂なんちゃらアイドルの歌詞に見えなくもないこういったことを、2時間半も語られるとそれはこちら側のカタルシスにもなってくる。彼にとってのコミュニケーションは投げたボールを自分の仕方とは違うやり方で投げ返してもらうことではなく、蓄音機みたいな自分を音響のいい部屋で流して自分もその音色に酔いしれることに違いない。
この、断言口調は他者の批評を寄せ付けないので、私はそこでただただ鏡として彼の前にいるほかない。

彼の人生についての語りが誇張されたものであるとか若干の事実との齟齬があるとかいうことはここではそんなに問題ではないのだ。

それこそ同じ人生を歩いたとしてもそれについて語る人間によって色合いは変わる。そんなことより五輪開催の意見形成にまったく必然性のない細部まで盛り込んで軽めの自叙伝を読み上げるほどのこの溢れ出る自意識は一体何なのか。フォレスト・ガンプがベンチで隣り合わせた人たちにとうとうと人生を語っていた、ああいう類のものなのだろうか。かつての純文学における周りくどい私小説みたいなものなのか。彼は台湾の太宰治か田山花袋なのか。

男の自分語りがなんでこんなに閉じられたものなのか
男の自分語りがなんでこんなに閉じられたものなのか

台風19号で溢れたマンホールみたいな彼のセンチメンタルを余所に、私はこのバーバルな自己語りにちょっとした郷愁を感じていた。かつて触れたことのある、柔らかい何かに似ている。

そうだ、あれは私が30歳くらいの頃、巷ではギリギリWikipediaに載っているか載っていないかくらいの経営者や文化人のページに、あきらかに自分で編集したであろう記述が散見された。
それが別に大胆な経歴詐称ではなく、また「超絶イケメン」とか突っ込まれ待ちなことを書いているわけでもない。過去のインタビューや自分の書いた記事をソースとして、触れられたい部分、気付いてほしい文をそっと書き加える。

たとえば「学生時代には野球部に所属していたが、上の学年の部長と折り合いが悪く、喧嘩をして退部。その時部の顧問に出した退部届の攻撃的な分析は後輩の間で語り継がれることになる」とか。
あるいは「姉たちの影響で少女漫画や女性ファッション誌に囲まれて過ごした。女性受けがいい作風はそういった幼少時に培われたといい、事実中学・高校を通して友人・恋人を問わず女性に囲まれていることが多かった」とか。

自分の名前に解説がつくことの面白みは、自分の認識と他者の理解がズレていることにある。
Wikipediaのように大量の情報ソースから、厳選された情報が載る場合は、何が書かれていて何が書かれていないか、に批評性があり、本人による自伝やインタビューと違って、今現在の彼の姿を説明するのに重要だと思われるファクターが、他者によって決められることが重要なのだ。
よってそこに本人の手が加わった瞬間、その面白みは墜落する。

空っぽなら空っぽなりに、堂々と生きていればいいのに
空っぽなら空っぽなりに、堂々と生きていればいいのに

私の修士論文はAV女優のインタビューがどうしてかくも饒舌かつ逸話としてよくできているかというものだった。
それは勿論あとで就職先やら親族やらにAV出演がバレた時の壮大な言い訳としての機能を期待してのことだったのだが、それはまぁいいとして、彼女たちというか私たちというかは繰り返される面接やインタビューの中で、空っぽで語りにくい自我にいちいち装飾をして聞こえ心地のいいものに仕立てる技術を獲得していく。
さらに、時間の経過が糧にならず欠陥になっていく残酷な業界で、すり減っていく自尊心を補うように、それまでは便宜的なものであった自己語りを内面化していく。

つまり繰り返しインタビューを受けるAV嬢でもないのに饒舌に自分語りをしてくる男の正体は、空っぽの自我と守りたい自尊心の間で何とか物語をつくり、その物語があるという理由において自分は何かをしてもいい、どこかにいても許される人間だと語りたい生き物だと言える。
それは他者からすれば、あきらかに現在地との接続が不自然なのだけど、そしてだからこそWikipediaの中で他の文に比べて浮き上がって見えるのだけど、本人には現在にとっての必然性がバッチリ見えている。
なぜかというと現在から都合よく帰納法で作り出した過去だから

修士論文なんていうものは大人になってからなんの役にも立たないことに意義がある気がするが、少なくとも私の論文は、AVが親バレした5年後に加えて、男の饒舌な自分語りをどうにか蹴っ飛ばしたい気分になった10年後にもそれぞれ非常に役立ったので、普通の修論よりよほど酷使された。

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鈴木涼美

すずき・すずみ●1983年東京都生まれ。作家、社会学者。慶應義塾大学環境情報学部を卒業後、東京大学大学院学際情報学府の修士課程修了。大学在学中にキャバクラ嬢として働くなど多彩な経験ののち、卒業後は2009年から日本経済新聞社に勤め、記者となるが、2014年に自主退職。女性、恋愛、世相に関するエッセイやコラムを多数執筆。
近著に『女がそんなことで喜ぶと思うなよ 愚男愚女愛憎世間今昔絵巻』など
公式Twitter @Suzumixxx

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