2020.9.13
【9月15日は関ヶ原の戦いの日】「普通の人」徳川家康が天下を取れた理由
謎だらけの信康事件
さて、信玄の病死で窮地を脱し、長篠の戦いで武田軍にリベンジを果たした家康に、またしても難題が降りかかりました。いわゆる「信康事件」です。まずは信頼できる史料を基に、事件の経緯を整理してみましょう。
家康と正室・築山殿の間に生まれた信康は、織田信長の娘・徳姫を妻に迎えていました。しかし、徳姫と築山殿の折り合いは悪く、やがて信康とも不仲になっていきます。天正七年七月、徳姫は信長に手紙を認したため、信康の非行、さらには築山殿の武田家への内通を訴えました。
これを受けた家康は急遽、信長の下へ重臣の酒井忠次を派遣します。信長は忠次に対し、「信康は、家康殿の好きなようにされよ」と告げました。そして八月、家康は家臣に築山殿を殺害させ、九月には信康を自害させます。
従来、この事件は「家康は、信康を切腹させろという信長の無理難題にも歯を食い縛って耐え、妻子を犠牲にすることで徳川家を守った」といった説明がなされてきました。しかし、信長は「好きにしろ」と言っただけで、切腹させろとは明言していません。築山殿については、名前も出していない。ではなぜ、家康は二人を死に追いやったのか。
この謎が多すぎる事件に対して、近年では別の説も唱えられています。
どうやら、家康と信康の間には、元々確執があったようです。事件当時、徳川家では浜松城の家康とその直臣団が遠江を、そして岡崎城の信康とその配下の岡崎衆が三河を、それぞれ治めていました。この体制が、派閥の形成に繋がりました。
対立はやがて、岡崎衆が家康を排し、信康を当主に立てることを画策するまでにエスカレートします。武田家と連絡を取っていたのも、家康排除後に織田家との同盟を破棄し、武田家と結ぶことを考えての布石でしょう。三河一向一揆を経て一致団結したかに見えた三河武士たちですが、必ずしも家康に心服していたわけではなかったのです。
この動きに気づいた家康は先手を打ち、信長のもとへ酒井忠次を派遣します。家康の息子とはいえ、信長の娘婿でもある信康を勝手に処断することはできません。そして、酒井忠次への信長の返答が、「家康殿の好きになされよ」という言葉でした。
もちろん、我が子を死なせることに、家康は葛藤を覚えたことでしょう。廃嫡して追放、あるいは幽閉という、穏便な手段もあります。しかし信康が生きている限り、徳川家分裂の不安要素が消えることはありません。もしも信康と岡崎衆が蜂起して武田軍が介入するようなことになれば、徳川家の滅亡は必至です。
家の存続を取るか、我が子の命を取るか。家康は亡き父・広忠と同じ選択に直面し、父と同じ結論に達します。違うのは、我が子の命を自ら奪ったことでした。
かくして、家康は信長からの強要ではなく、自らの意思によって、信康に自害を命じたのです。
家康が築山殿まで殺害したのは、彼女が信康の側に付いていたからでしょう。むしろ、築山殿が家康排除を主導していた可能性すらあります。家康が今川家から離反したために、築山殿の父は殺害されました。彼女が家康を憎み、我が子・信康を当主に据えようと考えていたとしても、おかしくはありません。
あくまで個人的な見解ですが、こちらの説の方が、信憑性があるように思えます。実質は配下同然でも、織田家にとっての徳川家は名目上、対等な同盟相手でした。その跡継ぎに腹を切るよう命じれば、徳川家の離反を招きかねないのです。酷な言い方ですが、そんな危険を冒してまで殺す価値が、信康にあったとは思えません。
事の発端となった徳姫の手紙(そもそも、手紙そのものが現存していません)についても眉唾ものです。いくら不仲とはいえ、夫を讒言するような手紙を出したことが露見すれば、激昂した信康やその家臣たちに何をされるかわかったものではありません。戦国の嫁入りは、まさに命懸けでした。
その徳姫は、信康自害後に織田家へ送り返され、京都に居住しました。家康が天下を獲った後には、家康四男の松平忠吉から、千七百石もの領地を与えられています。徳姫が家康の嫡男を死なせる契機を作ったのだとしたら、この処遇は説明がつかないでしょう。
実際のところ、徳姫と信康の夫婦仲はどうだったのか。それを推し測る史料は存在しません。しかし徳姫は信康の死後、徳川家から扶持を受け、再嫁することなく七十八歳の長寿を全うしています。