2020.9.13
【9月15日は関ヶ原の戦いの日】「普通の人」徳川家康が天下を取れた理由
家康、戦国デビュー
尾張を発った竹千代は、今度は駿河国駿府へ送られ、今川家の人質となります。
従来、家康は今川家人質時代の苛酷な処遇で辛酸を嘗め、忍耐力を養ったというような説明が多くなされてきました。
しかし、義元は竹千代に将来の三河国主として期待をかけ、厚遇していたようです。竹千代の師に自らの軍師・太原雪斎を付け、竹千代が元服する際には自ら烏帽子親を務めました。また、一族の関口氏純の娘(築山殿)を娶わせてもいます。後の天下人・徳川家康の武人としての基礎は、この今川時代に築かれたと見ていいでしょう。
ちなみに、今川家人質時代には、竹千代が気に入らない近習を縁側から突き落としたというエピソードが残っています。元の性格が短気だったということもあるでしょうが、幼い頃から父母の下を離れ、人質という境遇で生きるストレスは相当なものがあったと思われます。
さて、成長した竹千代改め松平元康は、永禄三年、義元に従って尾張攻めに参戦します。時に、元康十九歳。今川傘下の将としてすでに初陣を終え、正室・築山殿との間には嫡男の信康も生まれていました。
元康は意気込んでこの戦に臨んだはずです。ここで活躍すれば、今川家中での三河衆の立場は向上し、今川家の代官が治めている岡崎城も返還されるかもしれないのです。また、後々三河の一族郎党をまとめていくためにも、武人としての才覚を示しておかねばなりません。
五月十八日、元康率いる松平軍は、敵中に孤立した大高城に兵糧を運び込み、翌十九日には織田方の丸根砦を攻め落とします。しかし同日、今川本隊は桶狭間山で織田軍の強襲を受け、義元は戦死してしまいました。
報を受けた元康は、事の真偽をしつこいほどに確認し、情報が事実だと確信したところで、ようやく撤退を開始します。十九日深夜、大高城を出ると、翌二十日に岡崎の大樹寺に入り、岡崎城の今川軍がどう動くかを見定めます。岡崎在城の今川軍が引き上げると、元康はついに岡崎城への帰還を果たしました。
この時元康は、松平家の菩提寺である大樹寺で腹を切ろうとしたものの、住職の登誉上人に諫められ、思いとどまったという話が残っています。実際に切腹を考えたかどうかはともかく、よほど切羽詰まった心境であったことは想像に難くありません。
さて、桶狭間の戦いの後、元康は義元からもらった「元」の字を捨てて家康を名乗り、嬉々として独立を果たしたかのようなイメージをお持ちの方も多いでしょう。
しかし、元康は義元の死後もしばらく今川方にとどまり、翌年四月に反今川の旗幟を鮮明にするまでは、実際に織田軍と戦ってもいます。信長との同盟締結は永禄六年三月で、家康への改名にいたっては、桶狭間の戦いから三年後のことでした。
軽挙妄動を避け、慎重過ぎるほど慎重に事を運ぶ。こうした、後年の家康に見られる行動原理がこの頃から垣間見えます。庇護者でもあった義元の死によって、大名としての自覚が芽生えたのでしょうか。少年時代に見えた短気さは、すでに影をひそめていました。
今川家の支配を離れ戦国大名として自立した家康ですが、すぐに最初の試練が訪れました。三河一向一揆です。
永禄六年九月、本願寺教団の拠点・本証寺を中心に蜂起した一向一揆には、後に家康の謀臣となる本多正信など、多くの松平家家臣が参加します。家康は激しい戦いの末、翌年二月にようやくこれを鎮圧しました。精強さと主君への絶対的な忠誠で知られる三河武士ですが、その初期には、家康と血で血を洗う抗争を繰り広げていたのです。
三河武士に限らず、戦国時代の武士は、自らの主君を血統ではなく、実力で選んでいました。実際、家康の曽祖父に当たる信忠は、「乱心」を理由に家臣によって強制的に隠居させられ、祖父の清康も家臣に殺されています。家康は、主君の殺害すら厭わない三河武士という危険な集団を、自らの実力でねじ伏せ、忠誠を誓わせたのです。
こうして、ようやく国内を安定させた家康は、姓を徳川と改めます。しかし、試練はなおも続きました。
織田信長が越前朝倉氏を攻めた金ヶ崎の戦いでは、浅井長政の裏切りを受けていち早く退却した信長に置き去りにされ、武田信玄が上洛戦を始めると、信長からの形ばかりの援軍と共に三方ヶ原の戦いで惨敗を喫し、存亡の淵に立たされました。信玄の病没がなければ十中八九、ここで徳川家の命運は尽きていたことでしょう。
信玄に敗れた際の家康には、いくつかの情けない逸話が残されています。
敗走中、恐怖のあまり脱糞した。逃げる途中、茶屋で餅を食い逃げした。敗北の口惜しさを忘れないために自画像を描かせた、などなど。しかしこれらの逸話は、どれも後世の創作のようです。
それにしても、星の数ほどいる戦国武将の中でも、脱糞エピソードを持つ者はそうそういません。さすがは天下人、逸話の情けなさも群を抜いています。