2019.5.12
リーマン・ショック&会いに行けるアイドルの台頭……。2010年代前半“停滞期”のレースクイーン界に起こったサバイバル大作戦とは?
2010年、レースクイーン業界の停滞期に一光を浴びせたユニットとは?
「レースクイーンからすれば、あのころ、“停滞期”だったのは否めません」
そう語るのは、佐崎愛里さん。2012年レースクイーン大賞グランプリを獲得。キャリアはおよそ10年。人気のカーレース「SUPER GT」において今年もレースクイーンを務めている。彼女が指す“あのころ”とは、2010年代前後のこと。2008年9月、米国の投資銀行リーマン・ブラザーズ・ホールディングスが経営破綻したことによって発生した、いわゆるリーマン・ショックの影響を肌で感じたという。
「わたしはOLから、展示会のイベントコンパニオンに転身したんです。2009年のことでした。その年の10月に開催された東京モーターショーに出させていただいたときはもうイケイケな雰囲気ではなかったですね。出展会社も出展車両数もやけに少なかったんですよ。時代は、ぜいたくなスポーツカーよりもエコカーだっていう印象を受けました。すごく控えめな感じで」
1954年からスタートし、1~2年ごとに定期開催されている東京モーターショー。一般社団法人・日本自動車工業会による公式HPでは、2009年の出展会社数は128社、出展車両数は261台、入場者数は61万4400人。前年2007年の241社、517台、142万5800人という数字に比べれば、半減もしくはそれ以下である。(ただし、2011年から各数字は復調している)
もうひとつ、レースクイーンたちに対して、大きな壁として立ちはだかったのが、“会いに行けるアイドル”だ。その筆頭は、2005年に誕生したAKB48。専用劇場を設けて、高い頻度で公演を行い、握手会をつど開催。画期的なビジネスによって、それまでレースクイーンの専売特許であった、ファンとの近しい距離感を演出。2009年に14thシングル『RIVER』が初めてオリコンウィークリーチャートで1位を獲得すると、その後は社会的現象となり、地下アイドルグループにいたるまで、AKB48方式の近距離フォーマットは伝播していった。
1990年代後半のレースクイーン・バブル崩壊以来の危機的状況。かといって、黙って指をくわえているわけにはいかなかった。ならば、歌って踊れるレースクイーンを作ろう……。そう考えたのが、自身も2009年までレースクイーンとして活躍した南香織さん。レースクイーン活動に区切りをつけて、運営サイドに入ってきた。彼女の構想をたまたま最初に起用したのが、国内屈指の中古カー&バイク用品買取・販売専門店「アップガレージ」だった。
「たしかに2010年代初めは、ある意味、冬の時代でした。でも、わたしはピンチはチャンスだと捉えたんですね。こんな時期だからこそ、目立つことをやってみようと。アップガレージさんは、社風も体育会系でノリがいいし、社員の中にもアイドルが好きだという方がたくさんいて。イベントも開催していたから、ステージがちゃんと用意されている。だったら、自社で普通にレースクイーンを立てるだけじゃなくて、ダンスヴォーカルユニットを作ろうって。わたしがスーパーバイザーとして2010年に入って、準備期間を経て、翌2011年から歌って踊れる“ドリフトエンジェルス”を本格的にスタートさせることになったんです」
初のお披露目となったのは、タイヤを横滑りさせるドライブテクニック=ドリフト走行を競い合う、全日本プロドリフト選手権(通称・D1グランプリ)。南さんはアップガレージのイメージカラーである黄色、青、赤、白を巧みに使ったガーリーな衣装を製作、作詞を手伝ったオリジナルソングも引っ提げて、華やかなステージを作った。
2011年から3年にわたり、ドリフトエンジェルスの中心メンバーを務め、2014年日本レースクイーン大賞グランプリを受賞した日野礼香さんは、こう振り返る。
「それまで、レースクイーンといえば、高身長のクールビューティーっていうイメージが強かったんですけど、ドリフトエンジェルスの誕生によって、イメージが変わったと思うんです。かおりん(南香織さん)が手掛けた衣装デザインは、フリルをふんだんに使って、なんとなくアニメの“プリキュアシリーズ”を彷彿とさせるような、キュートな感じ。わたし自身、強烈なアニメオタクですし、コスプレが趣味なので、すごく刺さりましたね」