2026.3.14
負け組の星・ハルウララブームの背景にあったもの「一生懸命やってるだけで十分やないか」【人生競馬場 第8回】
前回は、スティルインラブと佐川さんの学生時代の恋のエピソードでした。
今回は、競馬ファン以外にも知れ渡ったハルウララについて綴っています。

記事が続きます
「負け組の星」というブームを生み出したもの
ハルウララは日本で初めて、「弱さ」によって社会現象を起こした競走馬である。この連載を読んでくださっている方の年齢層はわからないが、三、四十代より上の世代なら名前ぐらいは聞いたことがあるのではないだろうか。もちろん、勝ちきれない馬、どこか愛嬌のある馬というのはそれまでも愛されてきた例があった。たとえば有馬記念3年連続3着のナイスネイチャ、GⅠレースで2着を連発し「シルバーコレクター」の名をほしいままにしたステイゴールド、一か八かの大逃げ戦法を採り続け観衆を楽しませたツインターボ……いわば記録ではなく記憶に残る馬、という系譜は確実に存在している(ちなみにステイゴールドは引退レースで海外GⅠ香港ヴァーズを日本馬として初めて制し、種牡馬としてもゴールドシップや三冠馬オルフェーヴルを輩出するなど「記録」にも残ることとなった)。しかし、ただただ「弱い」というだけで日本中の注目を集めた馬はこのハルウララをおいて他にない。ハルウララは1998年から2006年に引退するまで実に113連敗を喫したわけだが、実は単に連敗というだけなら他にもすでに先輩がいた。浦和競馬のハクホークインという馬は161連敗しているし、グレースアンバーという馬も108連敗している。もしかするとそういった馬たちにも一定のファンはついていたのかもしれないが、社会現象となったのはハルウララだけである、と言い切っていいだろう。なぜハルウララだけが「弱さ」によって注目され、多くの人々に愛されたのか?
正直に言うと、当時の私はハルウララブームに冷ややかであった。そもそもナリタブライアンがきっかけで競馬に入っていることもあり、基本的に強い馬が好きな性質なのだ。ツインターボのような面白い馬も好きだったが、それも重賞のような大レースで勝ち負けに絡むレベルで博打を仕掛けてくるから目につくのであって、普通に負けまくっているだけの馬になぜこれほどのファンが生まれるのか、私にはあまりよく理解できていなかった。おそらくだが、いまだにハルウララ人気がよくわからない、というかつての私のような層もかなり多く存在するのではないかと思う。そこで、今回はハルウララブームが起こった経緯やその理由について考えてみたい。
ハルウララの出身地は北海道三石町の信田牧場である。日高地方にある三石町が輩出した有名馬には1984年に国産馬として初めてジャパンカップを制したカツラギエースや(ちなみに当初は国産馬が勝てなかったジャパンカップだが、近年では国産馬が勝ち続けていて、2025年ジャパンカップでアフラマズダが勝ったのが二十年ぶりの海外馬制覇として話題になった。時代は大きく変わったのである)、第六回で紹介したオグリキャップなどがおり、全国的にも有名な馬産地である。
血統の方は、父ニッポーテイオー、母ヒロイン。父のニッポーテイオーは1987年の天皇賞(秋)、マイルチャンピオンシップ、1988年の安田記念を制した名馬で、その母チヨダマサコはエリザベス女王杯を制したタレンティドガールも輩出した名牝だ。母のヒロインは中央競馬でデビューし11戦0勝。ヒロイン自身は繁殖牝馬として期待されるような成績ではなかったが、ヒロインの母ピアレスレディは中央競馬のオープン戦を勝ってGⅠレースのエリザベス女王杯に出走するほどの力を持っており、かつて信田牧場を支えた重要な一頭であった。そのピアレスレディの血が流れているという事実に陣営は賭けた。そして周囲の期待の中、ヒロインが初めて産んだ仔がハルウララだった。
しかし、ハルウララは体が小さかったためセリでも声がかからず、結局最初は生産者の信田自身が馬主となることになる。信田も大きな期待はしていなかったが、かつて信田牧場の小さな牝馬、ファイブホープがGⅠレースのオークスを勝ったことも頭をよぎり「牝馬はどこでどう化けるかわからない」という思いもあったらしい。所属厩舎は信田牧場に古くから縁のある、高知競馬の宗石厩舎に決定した。その後はすでに述べたとおり、陣営の期待空しく連敗を重ねることとなる。
このハルウララが100を超える連敗を達成できたのは(冒頭で挙げた馬の他にも100連敗越えの馬は少なくない)、競馬には出走手当というシステムがあるからである。レースに出走するだけで着順に関係なく一定金額が馬主に与えられる。高知競馬の場合、当時の出走手当は5万円、厩舎への預託料は一頭12万円で、月2回の出走でほぼ預託料がまかなえるという計算の下、ハルウララはハイペースでレースに出走することになった。この点に対して同情の声も多く上がり、一生懸命走る馬だというイメージを強くしているが、能力不足で賞金を獲得できる順位を確保できない馬に対する馬主の判断としてはそれほどおかしなものではないし、殺処分するよりはるかに温情的な措置であると言うこともできる。
ハルウララブームの発端となったのは、地元で8割のシェアを誇る高知新聞の記事だった。高知新聞社会部の石井研記者と、高知競馬の実況担当・橋口浩二アナウンサーがたまたま飲みに出かけた際に、二人は存続の危機にある高知競馬について語り合った。その中で橋口氏が「負け続けているハルウララという馬がいる」と話し、これに目をつけた石井氏がすぐに宗石厩舎に取材を申し込んだという。そして2003年6月、高知新聞の夕刊に初めてハルウララの記事が掲載された。読者の関心が高い社会面で写真を大きく掲載したことにより、ハルウララはまず地元高知の注目を集めることとなった。
高知競馬組合の吉田昌史氏はその後、負け続けるハルウララを地元だけでなく対外的にもアピールすべく、マスコミに向けて大量のニュースリリースを送付した。その努力が功を奏し、ハルウララの記事が毎日新聞朝刊に掲載されることになる(吉田氏は最初地方版に載るものと思っていたらしいが、全国版の社会部デスクが偶然競馬好きだったこともあり全国版に掲載されることになった)。さらにこの記事をフジテレビの番組「とくダネ!」の小倉智昭アナウンサーが見つけて取り上げたことで、ハルウララはついに全国的に名を知られることとなる。毎日新聞やとくダネ!の取り上げ方はまだ地方に面白い馬がいるという程度のものだったが、その後、負けても懸命に走り続けるハルウララと厳しい競争社会とを絡めた記事が東京新聞に掲載される。見出しは「リストラ時代の対抗馬」。ハルウララの「負け組の星」としての受け止められ方の基礎を築いたのは東京新聞だと言っていいだろう。
記事が続きます
![[1日5分で、明日は変わる]よみタイ公式アカウント](https://yomitai.jp/wp-content/themes/yomitai/common/images/content-social-title.png?v2)
















