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篠田節子「介護のうしろから『がん』が来た!」

かゆみが消えた! 皮膚の清潔と母を風呂に入れる話

 だが、ここは温暖で湿潤な日本。二週間も風呂に入らないと母のすねの皮膚はウロコ状になってくるし、全身からかぐわしいにおいが立ち上り始める。本人がその気になるまで、などと悠長に構えてはいられず、遂に「今日という今日は」と私も決意する。
 
 夏場なら窓を閉め切り、冬場なら室温を上げ、「暑い、暑い」と座敷で母が服を脱ぎ始め、耐えきれず半裸になったところで、調子の良いことを口にしながら、畳の上で丸裸にして、風呂場に誘導。
 本人は風呂に入る手順など忘れているし、何より面倒くさいのでかけ湯さえしないが、裸で浴室に入れば、自分からバスタブに片足を突っ込み、ざんぶりと体を湯に沈める。
 人に風呂の入り方を指示されたり、ましてや体を洗われるなど、本人的にはとんでもないことなので、お湯の温度をあらかじめ低くしておき、湯に浸かった母をそのまま放置する。

 その間に座敷に脱ぎ散らかした衣服を集めて洗濯済みのものに取り替える。風呂も嫌いだが、着替えも拒否するので、入浴中が唯一のチャンスだ。ただし取り替えられたことがわかると「私の着ていたものをどうした?」と怒り出すので、さきほど脱ぎ散らかした形の通り、洗濯済みのものを散らかして置く。風呂から上がってきた本人は衣服がすり替えられたことに気づかず自分で身につける、という寸法だ。

 衣服を用意し終わったところで風呂場を覗き、無事を確認する。本人は鼻歌など歌いながら、ご機嫌でバスタブに浸かっているか、気が向くと石けんで体を洗っていることもある。
 ときおり冷たい水や水で薄めたジュースを差し入れ、入浴=気持ち良いの条件付けを試みるも、こちらは短期記憶が無くなっているのでほぼ効果なし。
 それでも風呂上がりはやはり気持ち良いらしく、上がってきて取りあえず衣服を身につけると満足げに座敷にごろりと転がる。

 その前に、皮膚から水分が蒸発しないうちにと私が保湿剤を塗ろうとするのだが、そこからまた「嫌だ」「塗らないと後でかゆくなるから」の攻防が始まる。
 風呂上がりはかゆみが一時的に治まる。短期記憶がないから、かゆかったという記憶もない。だから肌に変な保湿剤など塗られるのが不快で拒否するというわけだ。
 
 認知症について、単に記憶がなくなるだけだから、と偉い先生方は口にされるが、短期記憶がなくなるということは、説明して納得してもらうことができないということであり、本人からすればなぜそんなことをしなければならないのか、説明される片端から忘れるからさっぱりわからない、ということでもある。
 だから当人の「今」の気分と「今」の虫の居所を常に見計らい、ケアしなければならない。「入浴なう」「散歩なう」「排泄なう」、本人にとってはすべてが「なう」であって、そのあたりがなかなか面倒だ。

 介護老人保健施設に入って一年以上が経った今、母がかゆみを訴えることはない。手足のひっかき傷もない。いつ面会に行っても、つるつるのきれいな肌をしている。
 週二回、たぶん有無を言わさず、風呂に入れてもらっているせいだろう。だだをこねる年寄りを相手に、どうやって決められた時間帯、決められた時間内に服を脱がせ、体を洗い、新しいものに着せ替えているのか。介護士さんのご苦労がしのばれる。

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篠田節子

しのだ・せつこ●1955年東京都生まれ。作家。90年『絹の変容』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。
97年『ゴサインタン』で山本周五郎賞、『女たちのジハード』で直木賞、2009年『仮想儀礼』で柴田錬三郎賞、11年『スターバト・マーテル』で芸術選奨文部科学大臣賞、15年『インドクリスタル』で中央公論文芸賞、19年『鏡の背面』で吉川英治文学賞を受賞。『聖域』『夏の災厄』『廃院のミカエル』『長女たち』など著書多数。
撮影:露木聡子

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