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篠田節子「介護のうしろから『がん』が来た!」

気管挿管実習を断った日

 その日のうちにすぐにK美ちゃんの携帯メールに、それってどんなものなの? と問い合わせる。
 即レスだった。

「篠田さん、まさかの気管挿管の実験台ですか。ご無事を祈ります」
 
 ご無事を祈るって、あんたさぁ……。
 K美ちゃんによると、救命士の挿管研修は病院に通って30件成功しないと帰れないそうで、研修は二~三ヵ月続く。それをいかに早く終わらせるかは担当の麻酔科医の腕次第で、有無を言わさず患者に同意させてどんどん件数を稼ぐしかない。

「そりゃ研修医ですらない救命士で、しかも患者も大抵若くて元気でたまたま全身麻酔の手術を受けるって人に限られるわけだからまともに同意を取ってたらほとんどの人が拒否するでしょうからね(^_^;)」

 おいおい、その顔文字は何なんだぁ。
 とはいえ麻酔科医が横に付いているので、難しそうならすぐ交代する。だからそんなに危険はない。それでも、まれに歯が折れたとか気管に傷がついたなどという事も起きる、とのこと。
「何にせよ全てがうまくいくことを願っています」とメールは結ばれていた。
 どうせ全身麻酔されれば、何が起ころうとわからない。だれかがやらなきゃならないんだから受けるしかないだろう、と腹をくくった。
 
 だが、手術の二日前、二ヵ月に一度、ゲスト出演しているラジオ番組のディレクターから放送台本が送られてきた。手術から三週間後の年明け早々にその仕事が入っていたのをすっかり忘れていた。80分の生放送だ。
 以前読んだ乳がん患者の方のエッセイで、手術時の気管挿管のために、二、三週間、声がかすれたり、咳き込んだりしていた、という記述があった。そちらは救急救命士さんの実習ではなかったのだが、慌てて病院に電話をかけた。
 麻酔科の先生に事情を話し、大丈夫ですか、と尋ねると、「心配なら断ってかまいませんよ」という、あまりにもあっさりした回答があった。
 手術後、しばらくの間、声を出しにくくなるということは起きる。それは医師が行っても起こりうるが、実習の承諾は強制ではないので断っても差し支えない。
 医師としてそうとしか答えようがないだろう。承諾書にハンコを押した以上は患者の自己責任の世界だ。
 申し訳ないと思いつつ、断った。
 
 こんなとき、気管挿管に限らず、あちこちで失敗している内視鏡手術など、医療実習用のロボットがあればいいのになぁ、と思う。
 失敗したとたんに咳き込んだり、白目を剥いたり、痙攣けいれんしたり、痛い痛いとわめいたりして反応するロボット。高度なAIなんかいらないのだし、ホンダと阪大と、オリエント工業あたりが協力したら可能じゃないの? 
 などと夢想していたら、連載担当者から「んなものとっくに出来てるよ」と指摘が入った。さるロボット開発製造会社と医大が協力して作ったものの写真を見せてもらったが、「えっ、うっ、かわいい」。
 それもそのはず、外装は本当にオリエント工業だそうな。モノ造りニッポンは健在だ。

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篠田節子

しのだ・せつこ●1955年東京都生まれ。作家。90年『絹の変容』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。
97年『ゴサインタン』で山本周五郎賞、『女たちのジハード』で直木賞、2009年『仮想儀礼』で柴田錬三郎賞、11年『スターバト・マーテル』で芸術選奨文部科学大臣賞、15年『インドクリスタル』で中央公論文芸賞、19年『鏡の背面』で吉川英治文学賞を受賞。『聖域』『夏の災厄』『廃院のミカエル』『長女たち』など著書多数。
撮影:露木聡子

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