2024.3.21
刻の涙を見よ──2浪のアニオタ柴原が深淵をつづった詩集【学歴狂の詩 第10回】
あらゆる悩みが「当事者」にとっては命に関わる悩み
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現在、柴原は外科医として活躍している。彼の妻もまた医者で、私ではほとんど土地も買えない都会に豪邸を建てて三人の子供を育てているようである。つまり社会的に見れば私とは比べものにならないほどの成功者になっているわけで、この年齢(アラフォー)になってくると、あの頃の一浪や二浪の差など何でもなかったのだなと思える。だが、それはあくまでも後から思えることだ。受験の悩みも恋愛の悩みも仕事の悩みも子育てを含む家庭生活の悩みも、あらゆる悩みが「当事者」にとっては命に関わる悩みなのであり、それが小さく見えるのは「当事者」ではないから、あるいはなくなったからなのだ。当時の私や柴原にとって浪人時代というものがいかに死と接近した時代だったか、そして結果が不合格だったとしたら現在の自分がどうなっていたかということを考えると、やはり簡単に「浪人してよかった」「失敗から得られたものもある」などと言うことはできない。そう心から思えるのは、おそらく合格者だけだ。浪人するかどうかを決められるのは──家庭環境の問題も大きいが──最終的にはあくまでも本人だけである。そこにはつねに最悪の可能性がつきまとっていることを忘れてはならない。
だが、私は何度人生をやり直し、何度高三で京都大学に落ちたとしても、必ず親に土下座して浪人する道を選ぶだろう。私がはっきり言えるのはそれだけである。
こんな文脈で使われることは著者の本意ではないだろうが、最後に『二十歳のエチュード』の一節を引いて終わることとしたい。
「報いはない」
悪魔はどこまで行っても、この言葉を囁くのだ。
「救いはない」
僕の胸はたえずこの声にしめつけられる。
「頌歌はない」
寂寥は至る所で僕を待ち構えている。
「勝利はない」
だからと言って、僕が敗北したと、だれが言えよう──(『二十歳のエチュード』、原口統三)
次回連載第11回は4/18(木)公開予定です。
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